「神」はつながりに宿り、その姿を現す 「チ。—地球の運動について—」 その6

『知性とは何か?』

今作は大きな流れとして、C教=キリスト教の「呪い」から脱却し、「宗教」から「知性」の時代への移行を描いていますが、それでは魚豊さんは暗黒の中世ヨーロッパを生み出した「宗教=神」を忌むべき存在と考えているのでしょうか? 前にも述べたように僕は違うと思っています。

なぜなら第1巻に登場するフベルトから、バデーニやヨレンタ、いずれも本作で「知性」を体現する彼らは実は全員「神」を信望しており、おのおのが教会が押しつけた「神」ではなく、自分自身の「知性」によって「それぞれの神の姿」を導き出しているからです。

『チ。―地球の運動について―』第1巻 (BIG SPIRITS COMICS)

それでは「知性」と何でしょう? シンプルですが難しい問いかけです。しかし、さすが大学で哲学を学んだ魚豊さんです。その答えを彼は今作内で提示している。それは

知性」とは角度の高い「仮説」を構築できることである

ということです。そしてこの「仮説」を立てるには大きく2つの作業が必要です。

  1. 事象をよく観察し、数多くのサンプルを収集する。そのサンプルには先人の歴史も含まれる。
  2. そのサンプルや、過去の歴史を充分に検証した上で、共通点を導き出し、その共通点から、まだ出ていない結果を「類推」する。

これはアナロジーと呼ばれ、未知の物事に出会った際、今までに得た知識や経験から、その物事がどのようなものか推し量る考え方を指します。人は未知の領域へ至る際、必ずこのアナロジーを用いなければ先へ進めません。これは知性の本質であると同時に「知性の限界」でもある。これはヨレンタの口から以下のように語られます。

つまり何かを根拠(ぜんてい)にしないと論理を立てられない人間理性の本質的限界として、思考すると常になんらかの権威(ぜんてい)が成り立ち、誰もその枠組みからは出られないのかもしれない。

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

人は何かを前提としなければ思考することが出来ない存在ですが、その前提条件自体が一種の権威化されたものであれば、その思考の結果は偏って間違ったものになる。

つまり人は『私の前提は正しいのか?』を常に問い続けなければならない。常に己の前提条件に疑い続けることこそ、思考する上で最重要であると魚豊さんは述べている。以下はヨレンタとドゥラカの極めて重要な対話シーンです。以下の文章の「信念」を「前提」に置き換えて読んでみてください。

「どうして、そんなに稼ぎたいの?」
「……それが私の信念だからです」
「なら重要だな。でも時々、信念なんて忘れさせる何かに出会ったりする。その感情も大切にすべき。でないと—」
「でないと?」
「私みたいになる。信念はすぐ呪いに化ける。それは私の強さであって、限界でもある」
「……でも、信念を忘れたら人は迷う」
迷って。きっと迷いの中に倫理がある

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

『現実世界とパラレルワールド、2人のラファウ』

今作で多くの読者が困惑したのが最終巻に登場した、青年のラファウでしょう。ここで読者は第1巻のイントロが『15世紀(前期)P王国某所』であり、第8巻最終章のイントロが『1,468年ポーランド王国都市部』である意味を知るのです。

なぜ、魚豊さんは作品をこのような複層的な構造にしたのか?それはその2で述べた様に一つは歴史に対しての魚豊さんの敬意であり、もう一つはラファウを単なる英雄にしたくなかったからでしょう。

フベルトにバデーニ、ヨレンタ、今作で「知性」を体現する彼らは全て「神」を信望してしています。しかしラファウは違う。彼が求めるのは知的探求の先にある「この世界の美しさ」に痺れたい。その純粋な想いだけです。

つまり第1巻のラファウも最終巻のラファウも内面は同じなのです。だからこそ1巻の表紙が、首をくくられながらも、「知」の探究を止めない、言い換えれば「狂人性」が剥き出しとなった、最終巻に現れる青年のラファウなのでしょう。

『チ。―地球の運動について―』第1巻 (BIG SPIRITS COMICS)

知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ。知りたいからやる。それだけだよ。そしてね、アルベルト君。これだけは覚えていてくれ。真理の探究において、最も重要なことだ。信じろ。自分の直感を。自然の絶美を。僕は何があろうと君の好奇心を否定しない。

『チ。―地球の運動について―』第8巻 (BIG SPIRITS COMICS)

一見すると純粋かつ、熱くたぎる知への探究心が溢れ出た名台詞に聞こえます。しかし、ここで一番の問題はヨレンタが指摘した『迷い』がないことです。上記の言葉に宿る精神は近代科学の発展を促しましたが、同時に作品内に現れる爆薬や、その系譜のはるか先に連なる原爆を生み出しました。

暗黒の中世ヨーロッパでは「宗教」がシステムとなって暴走したが、「科学第一主義」もまた暴走の可能性があるシステムであり、気をつけなければならない。何より「迷わなくなったら人間は終わりである=迷いの中にこそ倫理がある」これが魚豊さんが今作で辿り着いた答えの一つなのでしょう。

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

『それでも、神は必要である』

今作で個人的に最も凄いと唸ったのは、魚豊さんが現代における「新たな神の姿」を創造してみせたことです。これまでの神とは天上世界に存在し、人間を見下ろしている「絶対的な存在」でした。これを読んでいる皆さんも神のイメージとはそのようなものでしょう。しかし、魚豊さんが今作で仮説を立てた「神」とは以下のようなものでした。

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

上記で重要なことは先にも述べた「知性」を用いて思考する際、人間は必ず過去の物事や、世界の事象=歴史を検証し、そこから「仮説」を立てなければならないという構造を有していること。そして魚豊さんはその構造こそが神の意思であるとしている

そして、個々の人間とは善も悪もなく、ただ一つの「歴史」という線で繋がった「大きな流れ」の一部であり、だからこそ「歴史=大きな流れ」から断絶すると人は不安になり、袋小路に迷い込んでしまう。その一例が暗黒の中世ヨーロッパであったと看破しています。

悪と善、二つの道があるんじゃなく、すべては一つの線の上で繋がっている。そう考えたら、かつての憂節さえも何も無意味なことはない。でも、歴史を切り離すとそれが見えなくなって、人は死んだら終わりだと、有限性の不安に怯えるようになる。歴史を確認するのは、神が導こうとする方向を確認するのに等しい。だから過去を無視すれば道に迷う

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

それゆえノヴァク臨終の際、幻想のラファウは彼にこう言うのでしょう。「歴史」はバラバラだった人々をつなげるのです。

『チ。―地球の運動について―』第8巻 (BIG SPIRITS COMICS)

ここから先は作品内で明文化されていませんが、僕なりの拙い「知性」を用いて、これまでの魚豊さんの言葉が何を意味しているかを「思考」すると、以下の言葉が浮かび上がってきます。

神」とは天上世界に鎮座する「唯一絶対的」な存在ではない。「神」とは過去の歴史や、他人の想いにアクセスした際、そのつながりの間に『相対的(他との関係性で成り立つもの)』かつ、その都度ごとに立ち現れる、無数の存在であり、孤独であった人々をつなげ、救済する

この「新たな神の姿」の提示は凄い。なぜなら、我々はどんなにつまらなく悲惨な人生を送っても、「神」の一部になれる可能性を有している、そう語っているからです。

その7へ続く