「神」はつながりに宿り、その姿を現す 「チ。—地球の運動について—」 その5

『人はまだ、未来と向きあえない』

ここまで、魚豊さんが創作した「地動説が弾圧される=天動説が真実とされる世界」とは①暗黒の中世ヨーロッパであり、②宗教=神というシステムを発明した人間が、逆にそのシステムに呑み込まれた愚かな歴史であり、③進歩という今では当たり前の概念がない世界のメタファー(物の例え)であるとして、順に紐解いてきました。

そしてようやく『チ。—地球の運動について—』がスタートする15世紀になって、人は「宗教」の呪いから少しずつ脱却し、「知性」に目覚めていきます。今作は「知」に目覚めた人々が異端弾圧に耐えながら、己の「思い=感動」をリレーし、中世のその先、近代へと紡いでいく壮大な物語です。

しかし「地動説」が象徴する、もう一つの側面を忘れてはいけません。そこも説明していきましょう。まず14世紀イタリアで「知性」への回帰として、かの有名な『ルネサンス』運動が起こります。『ルネサンス』とは再生や復興を意味します。具体的にはギリシャ・ローマ時代の学問の再発見と呼ばれていますが、その本質は脱キリスト教世界の為の準備運動です。

キリスト教会が絶大な権力を得られたのは、「信仰=神」の名の下に全ての支配階級(王や貴族)を支配下に置いてきたからですが、もう一つはギリシャ・ローマ時代の様々な知識を「本」という形で秘匿し、自分たちで独占してきたからです。

その2でも述べた様に、「進歩」が許されない世界で、人々の精神は退化し、文化や学術面ではギリシャ・ローマ時代からストップしている状態でした。しかし15世紀にもなると、多くの学者や芸術家らは教会が隠してきた「知識」の本質がギリシャ・ローマ時代にあると嗅ぎ取っていました。第2巻から登場するバデーニはまさに象徴的な人物です。

『チ。―地球の運動について―』第2巻 (BIG SPIRITS COMICS)

ちなみに教会による「知識」の秘匿を巡って、それを知ろうとする欲望とそれを抑え込もうとする権力=キリスト教会の軋轢を描いたのが、ウンベルト・エーコ原作による傑作映画『薔薇の名前』です。暗黒の中世ヨーロッパの陰鬱な世界観を視覚的に体験するなら最高の作品だと思います。

『The Name of the Rose』ⓒ1986 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
エンターテイメントと教養の素晴らしい融合、中世ヨーロッパの陰鬱さが画面の隅々まで行き渡っています。

さらに重要な事は「死後の世界」を重要視し、信仰の根源にしてきたキリスト教に対し、ギリシャ・ローマの学問は「現世」の世界での真実と幸福の追求を求めたものでした。これは今作『チ。—地球の運動について—』の中でも、各キャラクターたちが、教会が「地獄」だとしたこの世界こそ、実は「天国」なのだと確信する、その精神に受け継がれています。

『チ。―地球の運動について―』第3巻 (BIG SPIRITS COMICS)

やがてルネサンスに賛同した多くの学者や芸術家らが自由で偏見なく、最も善く生き、最も正しく考えるために、古代の哲学者や思想家らの知恵を吸収し始めました。その結果、教会が民衆に対して押しつけた「呪い」を剥ぎ取っていく。これにより教会の支配力が少しずつ弱まっていきます。

しかしここで述べておかなければならないのは、彼らは『未来を目指そう』としたのでなく、「古代へ還ろう」としたことです。つまりルネサンスとは本質的に『後ろ向きな運動』だったのです

ルネサンスはギリシャ・ローマ時代に立ち返ることを第一に目指し、ギリシャ・ローマの文化を「古典」として崇めました。「古典(クラシック)」とは「最高のもの」を表す言葉です。「宗教」によって傷ついた人間の精神はまだ「未来」を目指すことは出来ませんでした。

『なぜ、活版印刷なのか?』

ここで実際の歴史に目を向けると、16世紀ドイツに現れたマルティン・ルターの宗教改革が発端となって、キリスト教会の欺瞞や悪事が明らかとなり、民衆に広まっていきます。

ここで重要なのが「活版印刷」です。今作においてヨレンタ及び異端解放戦線は地動説を唱えた『地球の運動について』を出版し、広く民衆にキリスト教会の嘘を広めようとするのですが、これは実際の歴史ではマルティン・ルターが聖書を民衆の読める言葉で出版したことの置き換えとなっています

大切な部分なので詳細に説明すると、キリスト教会(厳密にはローマ・カトリック教会)は蓄財や利子の取り立ては「罪」である、 しかしその「罪」は教会への寄進によってのみ免れることができるという教えを説き、莫大な財産を築きます。

聖職者は貴金属を身に纏い、贅沢な暮らしを謳歌しました。しかし、聖書ではむしろイエス・キリストは「清貧(せいひん)」を奨励しています。「清貧」とは貧しさを生き、私有財産を持たず、ただ神に対して従順で慎ましい生活を送ること。

それでは民衆はなぜ、イエスの教えと逆行する教会の行いに疑問を抱かなかったのでしょうか? それは聖書がラテン語という、聖職者や学者にしか読めない言語でしか書かれず、継承されてこなかったからです。つまり民衆は聖書の中身を全く知らなかったのです。

『チ。―地球の運動について―』第6巻 (BIG SPIRITS COMICS)

具体的には印刷という技術が無いため、知識の源泉である「本」は一冊ずつ手書きで写し取る、写本というやり方でしか製造できなかったのに加え、民衆には読めないラテン語で書かれていた。そこでマルティン・ルターはまず聖書を民衆が読める言葉に翻訳し、加えてちょうどその時期にドイツで発明された活版印刷で刷ることによって広く本当の聖書の教えを広めたのです。

イエス・キリストが生誕したのが紀元後1年、そこから1,400年以上の時を経て、ようやく民衆は自らの生活の全てを規定してきた、神の言葉を隅々まで知ったのです

当然、彼らは教会の欺瞞に気付き、糾弾します。それは宗教改革の流れとなって、ローマ・カトリック教会からプロテスタントが分離派生し、その後のキリスト教世界を二分していきます。ちなみに今作における異端解放戦線が活版印刷機を渡して、協力を仰ごうとしたH派とはこのマルティン・ルターとプロテスタントのことを表しています。

『チ。―地球の運動について―』第6巻 (BIG SPIRITS COMICS)

現実世界において、宗教改革の立役者はマルティン・ルターだとされていますが、実際はそうではありません。もしルターが活版印刷のない時代に生きていたら、今作の様々なキャラクターらと同様、異端として簡単に処刑され、葬られていたでしょう。そうならなかったのは「活版印刷」というテクノロジーのお陰です。

実は宗教改革を達成し、人々を「宗教」から「理性」の時代へと橋渡ししたのは「活版印刷=テクノロジー」なのです。そもそも人間とは「テクノロジーの発達によってのみ」進化してきた種族です

実はこれは現代社会と非常に類似しています。それはインターネットの発達と、それに伴うマスコミの衰退です。これまでテレビと新聞は「真実」を広める「絶対的な」ものであり、それに対して、疑念を抱く者は一部であり、仮にそれを唱えたところで社会的に抹殺されました。ジャニーズ問題なんて、まさにそうでしたよね。

しかし、今やマスコミの印象操作や偏向報道は白日の下となり、「マスゴミ」と揶揄され、政治の世界でもYouTubeを初めとするネット戦略の方が重要視されるようになった。早晩、新聞は消え去り、テレビはインターネットの下請け部門として、その傘下に吸収されていくことでしょう。

僕自身は広告の仕事を生業としていますが、広告屋の見地から見て、新聞やテレビはもはや70歳以上の「高齢者向けの特殊媒体」としか捉えていません。

しかし当然ネット中心の世界にも問題はあります。それはフェイクニュースに加え、SNSによる安易な誹謗中傷です。ここで重要なのは今作の後、魚豊さんが描いたのが『ようこそ!FACT (東京S区第二支部) へ』であることです。テーマはズバリ「陰謀論=フェイクニュース」。これってやっぱり今作で描いたテーマの先に浮かび上がってきたことなのでしょう。

『ようこそ!FACT (東京S区第二支部) へ』第1巻 (裏少年サンデーコミックス)

『地動説は未来を象徴する』

ギリシャ・ローマ時代の精神に立ち戻ろうとしたルネサンスに続き、ルターの宗教改革もまた『後ろ向き』な運動でした。なぜなら原点である聖書に「還ろう」としたからです

やはりギリシャ・ローマ時代の栄光があまりに大きすぎたのでしょう。そんな『後ろ向き』な人々の精神を『前向き』へと変える象徴的な概念こそ、今作で描かれる「地動説」なのです。ちなみに「天動説」は2世紀頃の天文学者プトレマイオスが提唱したものです。

当然、栄光のギリシャ・ローマ時代の遺産であり、それは中世時代もずっと信奉され続けてきました。しかし、後世の僕らは知っていますが、それは間違いで「地動説」こそ正しいです。

つまり「地動説」とは「古典=最高のもの」と信じ切っていた、当時のヨーロッパ人が抱えていた大いなる「呪い」を覆し、古代の人間でも間違いはある=彼らは完全ではないという事実の象徴なのです

さらにこの「呪い」は17世紀の科学革命により、「天動説」から「地動説」へ。さらにアイザック・ニュートンの万有引力の発見を数式で証明することで完全に打ち砕かれます。ここでようやくヨーロッパ人は「ギリシャ人は間違っていることを科学的に証明する」ことで、古典古代への尊敬の念を打ち砕き、遂に彼らを乗り越えることに成功しました。

やがてこれは18世紀の啓蒙主義へと繋がります。「啓蒙」とは「光で照らすこと」を意味し、理性を用いて宗教的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという運動です。世界には何らかの基本法則があり、それは理性によって認知可能であると考えました。

『チ。―地球の運動について―』第3巻 (BIG SPIRITS COMICS)
まさに啓蒙=光で照らされる名シーンです。

それは今作屈指の名シーンである、オクジーが満ちた金星を確認するシーンでも象徴的に描かれています。魚豊さんは「言葉」の作家だと思うんですけど、あえて何も「言葉」がないのが最高なんですよね。『神々しい』と言っていい、珠玉のワンカットです。

ちなみにその4でも述べましたがオクジーとはキリスト教の呪いにかかって、この世は地獄であると信じ込まされた中世ヨーロッパ人の精神であり魂なのです。

これ以降、現在にまで至る重要な概念を人間は手に入れます。それこそが「進歩」です。理性とテクノロジーの発展で、様々な問題はあっても、今日より明日、明日より明後日、着実に「世界=未来」は良くなっていくはずである。この現代人がごく当たり前としている考えは、実はたかだか300年ほど前に、様々な先人の苦難によって、ようやく我々人類が手に入れたものなのです

その6へ続く