『人間の獣性を、宗教で去勢する』
今作における「地動説が弾圧される=天動説が真実とされる中世ヨーロッパ世界」というのは主に3つのメタファー(物事の例え)であり、その2つ目が『宗教=神というシステムを発明した人間が、逆にそのシステムに呑み込まれた愚かな歴史』であると、その3で述べました。
そこで最終的に蛮族と呼ばれたゲルマン人と、キリスト教会が奇妙な結びつきを果たした。具体的には文字の読み書きすら出来ず、「税」の徴収も、共同体を「運営」するノウハウも持たないゲルマン人に対して、古代ギリシャ・ローマ時代から蓄積された学問と智恵を有する教会がそれらをサポートをするという体制でした。
しかしこの結びつきのメリットはあくまでゲルマン人の視点から見た場合のことです。キリスト教会側にも当然メリットがなければならない。もちろんゲルマン人とくっつくことで強大な富を蓄積したいという欲望はありましたが、一番重要な事は、古代ローマ帝国領内の人々が切実に願っていた、ゲルマン人の「獣性」を抑え込み、彼らに「道徳=人殺しをするな、略奪をするな、婦女を暴行するな」を植え付けたいということでした。
それに最も適した存在がキリスト教でした。宗教は人心掌握に加え、神の名の下に信者たちの行動を抑制することが出来ます。最も分かりやすいのが、「十戒」として、旧約聖書時より定められた以下の戒律(カトリック教の場合)です。
- 私のほかに神があってはならない。
- あなたの神の名をみだりに唱えてはならない。
- 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の妻を欲してはならない。
- 隣人の財産を欲してはならない。
ゲルマン人の「獣性」を「宗教」で抑え込むというのが、キリスト教が広がった最も大きな理由であり、さらにゲルマン人の行為を抑え込む際に都合が良かったのが、キリスト教には他の宗教と異なり「原罪」という概念があったことでした。
「原罪」とはキリスト教の根本教理の一つで、人間の始祖アダムとイブが悪魔に誘惑され、神の意志に背いて善悪の知識を有する禁断の木の実を食べたことです。何が善で、何が悪であるかは神にしか決められないことでした。
これにより彼らは楽園から追放され、地上へ落とされた。よってアダムとイブの子孫である我々人間は生まれながらに「罪深い」存在であるとされているのです。そしてこの「罪」は、洗礼を受けてキリスト教徒となり、その教えに従うことによってのみ赦されます。
言い換えれば、キリスト教会に従っていれば天国に行けますし、従わなければ地獄に行くしかないのです。この「原罪」と「戒律」のセットによって、ゲルマン人の獣性は徐々に去勢され、「道徳」を重んじるようになっていく。つまりここにはヨーロッパ人全ての切実な願いがあったのです。
その為には人間は徹底的に罪深き存在で、教会への忠誠を絶対とさせなければならない。今作『チ。―地球の運動について―』の第2巻の以下のシーンは、その行き着いた世界観をとても分かりやすく表現しています。ちなみに「原罪」と「天動説」を結びつけたのは魚豊さんの創作であり、最高のメタファー(物の例え)として本作では機能しています。
教会は蛮行を働く「ゲルマン戦士」を「騎士」へと変えました。騎士はそれまでの「ゲルマン戦士」と異なり、戦うためには教会が定める「正当な理由」が求めらます。その一例が後年行われる十字軍遠征です。「騎士」の戦いには常に道義的な意味合いが必要とされ、男子が騎士になる際は、教会による宗教儀礼が伴うようになりました。
ちなみに貴婦人を保護し、敬うという精神はヨーロッパ文化の長い伝統であり、これはそれまで強姦をいとわなかったゲルマン戦士に対する、教会のキリスト教的教育の成果の一例と言えるでしょう。
『宗教が知性を麻痺させていく』
このゲルマン戦士の長=王と、キリスト教会の結びつきは当初はお互いが求める目的を達成できる、最良の関係だったのかもしれません。しかしその過程でキリスト教会の力がより大きくなっていく。
そして1,077年、「カノッサの屈辱」により、ゲルマン戦士の末裔であり、時の皇帝であったハインリヒ4世が持つ「皇帝権」より、ローマ教皇の持つ「教皇権」が上であるとされ、力関係が完全に逆転してしまう。
こうなるとキリスト教会の天下です。彼らは権力のトップとして財産を蓄積し続け、それと共に腐敗していく。後は天国に行く為だと称して、民衆から金品を巻き上げ続けるだけです。お金に困れば「贖罪状(しょくざいじょう)」なる、ただこの書類を買うだけで、罪は許されるというとんでもない証明書を売り続けた。
人間は「原罪」を背負った罪深き存在である事を連呼することで人々を洗脳し、天国の素晴らしさと地獄の恐ろしさを植え付け、それに抵抗する者や権力闘争で邪魔になる存在はまとめて異端として排除する。当初の目的だった、ゲルマン人の暴力による「地獄」から抜け出すための切実なシステムであったキリスト教が、いつの間にか暴走し、新たな「地獄」を創り出していく。
魚豊さんが描いた「地動説が弾圧される=天動説が真実とされる中世のヨーロッパ世界」とは『宗教=神というシステムを発明した人間が、逆にそのシステムに呑み込まれた愚かな歴史』のメタファー(物の例え)であるというのはそういうことです。
だからこそ、第1巻の巻末に以下のニーチェの言葉があるのでしょう。
人間は神の失敗作なのか? それとも神が人間の失敗作なのか?
フリードリヒ・ニーチェ「偶像の黄昏」
『人は進化することを許されない』
さらにここには人類にとってもう一つ大きな弊害がありました。これまで「地動説が弾圧される=天動説が真実とされる世界」とは①暗黒の中世ヨーロッパであり、②宗教=神というシステムを発明した人間が、逆にそのシステムに呑み込まれた愚かな歴史であり、そして③進歩という今では当たり前の概念がない世界のメタファー(物の例え)であると延べ、順に説明してきましたが、ここからがいよいよ3つ目の「進歩のない世界」についてです。
なぜ、中世ヨーロッパで人間は「進歩」できなかったのか? それはキリスト教によって、「この世界は神の御業によって創られたものであり、隅々までその意思が行き渡っている。我々はその世界で天国を夢見て、祈り続けて暮らしていけば良い」と、信じ込まされたからです。そんな世界に「進歩」などあり得ません。と言うより「進歩」を目指すこと自体が、神の意思に背くことだからです。
僕はその2で中世ヨーロッパとは知性と精神が「退化」した時代であると述べました。これを象徴するキャラクターが第2巻から登場するオクジーです。彼はまさにキリスト教に洗脳され切った当時のヨーロッパ人を表しています。
ちょっと長くなりましたが、これが『チ。—地球の運動について—』が舞台となる中世ヨーロッパの大まかな時代背景であり、今作のスタート地点となる15世紀前期とは中世が終わり、近代へと移行する、ちょうど中間点です。
知性と精神を「宗教」により麻痺させられ、ギリシャ・ローマ時代から大きく退化していった人類が1,000年近い時を経て、再び「知性」に目覚めていくのです。
その5へ続く