「神」はつながりに宿り、その姿を現す 「チ。—地球の運動について—」 その2

『構造的な数々の仕掛け』

今作を読んで、前作との違いとして最も感じたのが「構造的な仕掛け」の数々でした。これが作品の背骨となって、しっかりと一本筋が通っているからこそ、物語が破綻せず、きちんと積み上げていける。実はこれって連載漫画の抱える大きな問題点の一つです。

長編ともなると5年から10年近い連載期間を抱えることになり、その中で少しずつ矛盾や食い違いが積み重なっていってしまう。その一例として僕は以前、荒木飛呂彦さんの『ジョジョリオン』を論じました。(もちろん作品自体にダメ出しをしている訳ではありません)

しかし、その1でも述べた様に第1巻の表紙で既にラストで死刑になる青年ラファウが提示されているなど、今作では緻密な構築が成されています。表紙に関してそれ以外にも注目して欲しいのが、最終巻以外どれも全てが天から地面に這いつくばる人々を「見下ろす」構図を採用していることです。それと同時に人々は天を「見上げて」いる。

『チ。―地球の運動について―』第1〜4巻 (BIG SPIRITS COMICS)

そして最終8巻では彼らが見上げ続けたもの、すなわち「天」が提示されています。本作で「地動説」とは「地=地獄」に縛り付けられ、いつか行けると信じる「天=天国」を見上げ続けるしかなかった人々が、やがてこの地上こそが天国であると確信する、その希望の象徴として描かれています。

『チ。―地球の運動について―』第8巻 (BIG SPIRITS COMICS)

それ以外にも各巻末の次号予告が毎回、哲学的な先人の言葉で提示されており、これも次巻でどうなるかを予め決めていないと出来ないことです。中でも象徴的なのが一巻の巻末にある哲学者ニーチェの言葉でしょう。これは2巻の予告であると同時に、今作全体の予告ともなっています。

人間は神の失敗作なのか? それとも神が人間の失敗作なのか?

フリードリヒ・ニーチェ「偶像の黄昏」

ニーチェと言えば「神は死んだ」の言葉で有名ですが、これを簡単に説明すると一般的な宗教において神は全能であり、人間はその創造物として神に従うべき存在とされていました。しかしニーチェは生きることに悩んだ人間がすがるべき存在として、神を「捏造=本当はない事をあるかのように偽って作り上げる」したことを看破しました

よって神の創造主たる人間が不完全であるからこそ、その創造物である神もまた不完全である。つまり、これまでの「神中心」であった世界から、「人間中心」の世界を構築し、神の存在を前提としない、新たな価値体系の構築を促しました。

では今作で魚豊さんはニーチェ同様に「神」の存在を否定し、人間の知性を磨くことで生きて行けと説いているのでしょうか? 僕は違うと思います。その1の最後でも述べた様に彼は今作の一連の思索の中で、これまでの「神」とは全く異なる、新たな「神」のあり方を提示しています。つまり魚豊さんはニーチェのさらにその先を行ったとも言える。それを順に紐解いていきましょう。

『メタファーとしての舞台装置の巧みさ』

魚豊さんの作品の特徴の一つにメタファーとしての舞台設定の巧みさが挙げられると思います。この舞台装置がしっかりしているからこそ、作品はスムーズに展開する。ちなみに「メタファー」とは暗喩(あんゆ)と呼ばれ、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式(○○は○○のようだ)ではないものを指します。

要は物事の例えであり、置き換えです。なぜこんなことを行うかというと、それによって、その事象の本質がよりクリアに見えるようになるからです。分かりやすい一例が「君は僕の太陽だ」「あの人は悪魔だ」「人生とは過酷なドラマである」というようなものです。

デビュー作の『ひゃくえむ。』で魚豊さんは「人生とはしょせん100m競争である」と変換し、デビューのきっかけとなった『佳作』では「人生とはしょせん絶え間ない、テニスのラリーでしかない」と置き換えました。そして『チ。−地球の運動について−』ではさらに複雑化し、「人間の精神と知性の進歩とは、天動説から地動説への変遷である」としている。

ちなみに今作は完全なフィクションで、実際の歴史上では地動説自体が迫害された事はありません。地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは異端審問で追求されましたが、地動説はあくまで口実であり、権力闘争の中、教会に楯突く彼とその一派を追い落とすために利用されたというのが本当のところです。実際彼は処刑されることなく、そのまま晩年を過ごしました。

では魚豊さんはなぜ「地動説」に着目し、「地動説が弾圧される世界」を描いたのでしょうか? 今作はパラレルワールド(同時平行する仮想世界)と現実世界の二重構造になっています。物語はパラレルワールドである15世紀前期のP王国から始まりますが、やがて最終巻で我々の住む、現実世界の1,468年のポーランド王国へとリンクします。

ちなみにパラレルワールドでヨレンタと異端解放戦線が発刊しようとした本の題名は『地球の運動について』ですが、これは現実世界でコペルニクスが書いた『天球の回転について』と対(パラレル)になる関係性を持っています。

ニコラウス・コペルニクス「天球の回転について」

なぜ魚豊さんは己の考える「地動説が弾圧された世界」をパラレルワールドとして、あえて現実世界と切り離したのか? それは彼の歴史に対しての敬意だと思います。一例を挙げれば、日本の戦国時代は時代劇として一大ジャンルを確立し、様々な作品が描かれていますが、それによってフィクションとノンフィクションが混じり合い、どれが本当の姿か分からなくなっています。

読み進めれば分かりますが、今作において「歴史」はとても大きな意味を持っており、その重要さはヨレンタの口を通して以下のように語られる。だからこそ真なる歴史を軽んじることなど出来ない。それに加えて、実際の歴史に縛られず、自由なフィクションとして、作品世界を構築したかったのでしょう。

人は先人の発見を引き継ぐ。それもいつの間にか、勝手に、自然に。だから今を生きる人には過去のすべてが含まれる。何故、人は記憶に拘るのか。何故、人は個別の事象を時系列で捉えるのか。何故、人は歴史を見いだすことを強制される認識の構造をしているのか。私が思うにそれは神が人に学びを与える為だ。つまり—歴史は、神の意思の下に成り立っている

『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)
『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)

『地動説は何のメタファーなのか?』

それではまず最も大きなポイントとして、「地動説が弾圧される=天動説が真実とされる世界」とは何のメタファーなのか? ここから順に紐解いていきましょう。

それは暗黒の中世ヨーロッパであり、②宗教=神というシステムを発明した人間が、逆にそのシステムに呑み込まれた愚かな歴史であり、その結果として、進歩という今では当たり前の概念がない世界という、まさに人間の知性と精神が地に堕ちた暗黒時代の3つの象徴です。

それでは順を追って、まずは①暗黒の中世ヨーロッパとは何なのか? から説明していきます。ヨーロッパの歴史は大きく以下の3つの時代に分けられます。

  1. 紀元前3,000年頃から西ローマ帝国が滅亡した紀元後476年までを指す「古代
  2. その西ローマ帝国滅亡から1,500年頃までを指す「中世
  3. それ以降(16世紀以降)を指す「近代

区分に対する見解の違いはありますが、概ね上記に分けられます。「古代」はまずギリシャを中心としたエーゲ海文明が栄華を極め、それに続いて興った古代ローマ帝国が領土を拡大し、1,000年以上もの間、存在し続けました。人間の歴史で1,000年以上もの間、国体が維持された国家はこのローマ帝国とヴェネツィア共和国、そして我が日本のみです。

古代ヨーロッパは人類の歴史上、現代を除くと最も豊かに繁栄した時代だと言え、科学や芸術、哲学に天文学等、全てのヨーロッパ文明の偉大なる礎となっています。

このギリシャ・ローマ時代の学問はそこからさらに1,000年以上経った『チ。—地球の運動について—』の舞台である15世紀のヨーロッパでも、全ての学問の基礎であるとされ、ずっと信じ続けられていました。逆に言えば中世の約1,000年間、人間は「全く進化しなかった」とも言えるのです

いや、進化どころか退化したというのが現実です。なぜそんなことが起こったのか? それは今作で天動説が象徴する「地球が神の意思により、宇宙の中心にはりつけになっている」からであり、人は神の意思を受け入れ、この「地球=地獄」でただひたすら祈り続け、死後の天国へ希望を託すしかないと教会に洗脳されたからです。

『チ。―地球の運動について―』第2巻 (BIG SPIRITS COMICS)

「希望は天国にしかない。この世は汚れてる。何故なら神様がそうお創りになられたからだ。これは歴史上の頭のいい人達が出した事実です」
「君はもう完全に、この世界を諦めてしまっているのか?」
「はい。この世で待っているのは喪失だけだ。しかも人はどうせすぐ死んで天国か地獄へ行くので、そっちを気にするべきです」

『チ。―地球の運動について―』第2巻 (BIG SPIRITS COMICS)

この知性と精神の退化を分かりやすく表現しているのがそれぞれの時代で作られた芸術作品です。僕がヨーロッパの歴史を識りたいと思った時に最も役立った本『超約ヨーロッパの歴史』で以下の作品を見た時、中世ヨーロッパとは混乱と退化の時代だったのだと一目瞭然で理解出来ました。

プラクシテレス「幼いディオニュソスを抱くヘルメス神」
ベルンヴァルト「ベルンヴァルトの扉」

上が紀元前4世紀、古代ヨーロッパの象徴たる彫刻作品、プラクシテレスの手による『幼いディオニュソスを抱くヘルメス神』であり、下はその約1,400年後の中世時代に作られたドイツ・ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂にある『ベルンヴァルトの扉』です。

ここで最も象徴的なのは人間の肉体表現です。堂々と力強い裸体をさらす古代の彫刻作品に対し、中世のそれでは人々は痩せ衰え、背骨は曲がり、頭を垂れ、裸は恥ずかしいものとして陰部を隠そうとしている。これは教会が広めた「肉体=人間は邪悪で罪なものである」という人間蔑視を表しています

魚豊さんは「教会による洗脳=知性と精神の麻痺」を「天動説」に置き換えました。素晴らしい変換であり、最高の舞台設定です。一件シンプルでありながら、抽象的な本質を具象化した素晴らしいメタファー(置き換え)だと言えるでしょう。

その3へ続く