『現代の源氏物語?』
その2で述べた、今作『チェンソーマン』と前作『ファイアパンチ』が全くと言って良いほど同一構造でストーリー展開される点について、順に説明してきましたが、それでは残った以下3点をまとめて説明していきます。
- 主人公を成長へと導くメンター(指導者)が女性であり、彼(デンジ&アグニ)は彼女らに翻弄され続ける。
- いずれの作品も構造的に主人公(デンジ&アグニ)は狂言回し(物語の進行を担う存在)であり、彼らに関わる幾多の女性達こそ本当の主人公である。
- 狂言回しである以上、主人公は空虚であった方が他のキャラを引き立てやすい。そんな空虚で他人(女性たち)に自分の生きる意味を決定されていた主人公(デンジ&アグニ)が、最後に自分で生きる意味を見いだすまでの物語でもある。
『ファイアーパンチ』は未来の氷河期の地球が舞台で、主人公アグニがそこをさまよう物語です。つまり言い換えるなら「旅」をする話なわけです。一方の『チェンソーマン』はどうか? デンジは特に「旅=移動」はしません。
しかし藤本さんがここまで前作と同一構造で『チェンソーマン』を展開している以上、やはりこれは「旅する物語」だと僕は思います。
それではデンジが旅する世界とは一体何なのか? それは本ブログのタイトルにも挙げた「女性たち」だと確信します。つまり今作はデンジが幾多の女性たちを遍歴していく、現代の『源氏物語(主人公である光源氏が幾多の女性と恋を重ねていく物語)』の様な作品ではないのか?

© 国立国会図書館デジタルコレクション
『源氏物語』に関しては学校の授業で聞きかじった程度の知識しか無い僕ですが、作者である紫式部は女性であり、主人公である光源氏を狂言回しに、本当に描きたかったのは男尊女卑の風習が色濃く残る、彼女と同じく平安時代を生きる女性の姿だったのでしょう。
平安時代から1,000年以上の時を経て、現代の女性たちが生きる姿を少年誌という舞台で展開して見せたのが今作『チェンソーマン』だと僕は思うのです。
だからこそ『公安編』を以下の様に分解した場合、『チェンソーマン』とはデンジが様々な女性を「遍歴=旅していく」物語となっているのが浮かび上がってきます。
- パワー編(コウモリの悪魔)
- 姫野編(永遠の悪魔&サムライソード)
- レゼ編(ボムの悪魔)
- サンタクロース編(人形の悪魔)
- マキマ編 (支配の悪魔)
いずれも彼女らはデンジの命を狙い戦いを挑んでくる。つまり身体を張ってぶつかり合ってくる。これって明らかにSEXのメタファーでしょう。デンジは物語上は童貞ですが、実際は幾多の女性たちと濃密に交わり合っているのです。

そして彼女らはデンジのメンター(指導者=導く者)として、様々な記憶=経験を植え付けていく。そしてコベニが最後に決定的な啓示を与えるのです。
こう見えてもいま俺はな、俺ん心はなあ、糞詰まったトイレん底に落ちてる感じなんだぜ。今までの良い思いも悪い思いも全部……全部が他人に作られたモンだったんだ。オレは最高にバカだから、バカみてえにと暮らしてたんだけど、気づいてみりゃあバカのせいで全部ダメになってたんだ。今思えば俺はな〜んにも自分で決めてこなかったな……。誰かの言われるがまま、何も考えねえで使われてさ……。決めてたのは昼飯になに食うかくらいでよ。これから生き延びても俺はきっと……犬みてえに誰かの言いなりになって暮らしてくんだろうな。
それが普通でしょ?
え?
ヤな事がない人生なんて……夢の中だけでしょ……。
あ、でも俺……普通になりたくて……。
デンジ君は普通になりたいの?

コベニはサラリーマンとして社会の底辺を生きるごくごく普通の女性です。しかしそんな一般的な存在から「ヤな事がない人生なんて……夢の中だけでしょ」という決定的な真実を授けられます。そしてとっておきの以下の一言。これってすなわち、あなた本当に今のままでいいの? って事です。
「デンジ君は普通になりたいの?」
この言葉により、彼はマキマによってかけられていた「呪い」からの脱却を果たすのです。ここからは個人的な妄想ですが藤本さん自身、過去の人生の中でこのような出来事があったのではないでしょうか。そしてこう思ったのでは?
「女ってスゲぇな……」
マキマはデンジを母性という「呪い」で縛る母的な存在ですが、コベニはデンジに「現実を見ろ、そして大人になれ=母を乗り越えろ」と静かに諭すのです。
『支配=母性からの目覚め』
マキマはデンジの人生で初めて彼に優しく接し、衣食住の保証を与えてくれた存在です。これは前にも述べたように動物の赤ちゃんが生後間もない時期に、特定の対象(親)を記憶し、それに追従する行動を形成する学習プロセス「インプリンティング=刷り込み」であり、その結果、デンジを己の支配下に置くことができました。
『公安編』とは赤ん坊だったデンジが、母=マキマの「呪い」から脱却するまでの物語だとも言えます。そういう意味では彼女の契約する悪魔が「支配の悪魔」であるのは実に象徴的です。
マキマは女として「男=デンジ」に愛欲を抱くことはありませんが、母として「息子=デンジ」に対する支配欲は旺盛です。
レゼやパワーを殺す際には明らかに息子を奪いに来る女に対する、支配欲から発する強烈な嫉妬が感じられます。


単純化すると『公安編』とは「マザコン化した息子=男」と「モンスター化した母=女」の対立の話だとも言えるでしょう。
『藤本タツキは、なぜ女性ばかり描くのか?』
藤本作品はとにかく女性が中心となる話ばかりです。もちろん少年誌掲載なので男性は出てくるのですが、仮にそれが主人公であっても狂言回し的な役割ばかり与えられ、本質的な主人公はいずれも女性になってしまう。
もう少し細かく分析すると、通常の少年誌、男性誌に見られるホモ・ソーシャル(男性間の連帯)の中で男が精神的、肉体的に成長していく物語、例を挙げるなら『ドラゴンボール』や『スラムダンク』などではなく、女性というメンター(指導者)によって、男が成長していくお話ばかりです。
以下は『スラムダンク』終盤の名シーンですが、このようなホモ・ソーシャル内での汗臭い結束を、藤本さんは絶対に描かない=描けないでしょう。

これこそが藤本タツキという一個人のどうしようもなくパーソナルな部分なのだと思いますし、加えて少年漫画の世界において突出した個性です。そしておそらく彼は本質的に「男」に興味が無い。
だからこそせっかく創造した魅力的な男性キャラ、早川アキも死ななければならない。彼が死ぬ理由はストーリーとしての必然性というよりも、単に藤本さんがこれ以上、男性キャラ同士の絡み合いを描くのがしんどくなったから、と言うのが本当のところだと僕は思います。
実はこういう人って世の中に一定数います。僕個人の主観としては大体3〜5%ぐらいだと思うのですが、男性であるのに「男社会=縦型社会」が苦手で、女性と一緒にいる時の方が心地よい。
あるいは逆のパターンとして、女でありながら「女社会=横型社会」の同質性がめんどくさく、男性、特におじさんなんかと話していると心地よいと感じる女性たち。
「男社会=縦型社会」、「女社会=横型社会」と断じるのはいささか乱暴なのは認めますが、本質的にこのような構造であると一社会人として生きていて僕自身そう感じています。
そして興味深いのは『チェンソーマン』で描かれる女性たちがいずれも「男社会=縦型社会」に放り込まれた女であるということです。
『暴走する娘を救いに来る父=神』
その2で僕はポチタこそがこの世界の神であると書きました。神とは言い換えれば創造主であり、「父」的な存在です。デンジはそんな「父」が男社会で苦しみ暴走する「娘=マキマ」を救うために遣わした使徒であると言えるでしょう。
女性たちの感性に敏感で、それを感じ取ることができる藤本さんの無意識から創り出された現代女性の象徴がマキマです。
彼女は女でありながら「男社会=縦型社会」の呪いにかかってしまい、縦型社会の頂点=トップを取ることで全てを「支配」しなければならないと信じ込んでしまう。
これこそが「支配の悪魔」が象徴するものであり、藤本さん自身が現代社会で生きる女性に感じた違和感なのでしょう。要は「男性化する女性」という事なのだと思います。
いわゆる男性的でマッチョな価値観は現代社会では否定され、どんどん淘汰されていますが、その結果「父なき世界」で男はどう生きていけば良いか分からず虚勢され、女はいなくなった「父」の代替としても振る舞わなければならなくなった。
今作『チェンソーマン』はそんな世の女性たちに対しての藤本さんからの不器用なラブレターだとも言えるでしょう。『公安編』最後のポチタのセリフはまさにそれを象徴しています。
それにしてもフェミニストから、目くじら立てられそうなこんな恥ずかしいセリフ、こういう荒唐無稽な作品にそっと潜り込ませなければ、男の口からはなかなか女性に言えませんよね。

デンジ……支配の悪魔(すなわち女性)の夢も叶えてあげてほしいんだ。支配の悪魔(女性)はね、ずっと他者との対等な関係を築きたかったんだ。恐怖の力でしか関係を築けない(縦型社会で勝ち抜くしか己を証明できない)彼女にとっては家族のようなものにずっと憧れていた。それで間違った方法だけど、そういう世界を作りたかったんだ。だから……デンジがそういう世界を作ってあげてね。
ポチタ……どうやって……?
たくさん抱きしめてあげて。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第11巻(集英社)
この後、物語は『学園編』へと場を移し、第二の主人公として三鷹アサが現れる一方、自我に目覚めモラトリアム期(大人になるための準備期間)に入ったデンジと合わせて、物語はより複層化していきます。これに関しては完結した際、改めて論じたいと思います。

