デンジが旅する「女性」という広大な世界 「チェンソーマン(公安編)」 —その3

『悩むから、飛べる=ネガティブ・ケイパビリティの力』

その2では、今作『チェンソーマン』と前作『ファイアパンチ』が同一構造でストーリー展開される点について幾つかの例を挙げましたが、その中で4番目に述べた「長編作品ではあるものの、曲が転調するように異なった物語が次々に展開されていく。言い換えると、中編を幾つか組み合わせるようにして、長編を作り上げている」について説明していきましょう。

まず、どちらの作品も明確に章立てされています。『ファイアパンチ』では、

  1. 主人公アグニがファイアパンチになるまでを描いた —序章 覆われた男
  2. アグニが世界の謎を知ると共に、ファイアパンチとして行った幾多の殺戮を後悔し、ファイアパンチとしての過去を封印しようとする —『頗章(はしょう)覆う男
  3. アグニが自我に目覚め、再びファイアマンとしての行動を再開する『旧章 負う男』

の3章立てとなっており、一方の『チェンソーマン』では現在のところ、

  1. 主人公デンジがチェンソーマンとしてヒーローになるまでの成り立ちを描いた —『公安編
  2. 実質的な主人公が三鷹アサにスイッチ。一方、ヒーローとなったデンジはチェンソーマンとしての己の存在意義に悩む —『学園編

の2章構成となっています。いずれも第1章では主人公が世界の英雄「ファイアパンチ=チェンソーマン」になるまでの成り立ちを。第2章では英雄としての責任の重さと罪、そして卑小な自己のギャップに悩む姿を描いています。

© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第6巻(集英社)

これを書いている2026年2月現在ではまだ出てきていませんが、上記の例に倣うと『チェンソーマン』には確実に第3章が用意されており、自我に目覚め、成長したデンジがこの世界の行く末を担い、最後の戦いに挑んでいく姿が予想されます。

ちなみに第2章はどちらもその1で述べた藤本作品の特徴である、ウダウダ思い悩む主人公の姿が延々と展開され、「これ大丈夫なんだろうか? 作品としてきちんと最後に着地できるんだろうか?」 そう感じた方もいると思いますが、『ファイアパンチ』を読んだ限り大丈夫です。

人がウダウダ思い悩み苦しむ課程こそ、藤本さんが描きたい人間像であり、その結果、主人公は最後に大きな飛翔を遂げます。高く飛ぶには一度低くしゃがまなければならない

これは「ネガティブ・ケイパビリティ=分からないを耐える力」と言うもので、答えが出ず、対処しようのない事柄に直面した際、早急に解決を求めず、不確実性や迷いの中に留まり続ける精神力を指します。

めまぐるしく動き続ける社会の中、人は安易に「結果=答え」を求めてしまいがちですが、答えの出ない状況下、辛い状態をじっと耐え、答えを模索し続ける事ができるのは立派な能力なのです。

ちなみに人気YouTuberサトマイさんが運営しているYouTubeチャンネル、【謎解き統計学|サトマイ】内にこれを素晴らしく解説した動画がありました。以下にリンクを貼っておきますね。

謎解き統計学|サトマイ /【答えを急がない勇気】すぐ決める人が優秀とは限らない理由

藤本さんはこの「ネガティブ・ケイパビリティ=分からないを耐える力」がずば抜けている。だからこそ、こんなにも数々の独創的な作品を生み出せるのでしょう。現代日本カルチャーのTOPである存在が、最も社会的欲望から距離を置いて作品を生み出している。とっても素晴らしいことですね。

ネットで検索すると第2章『学園編』はつまらないとの声が多く見受けられますが、皆さんの中にあるこの「分からないを耐える力」を駆使して信じて待ちましょう。

『作者の分身』

藤本さんは様々なキャラクターを複雑に絡み合わせ、いわゆる「群像劇=登場人物一人ひとりにスポットを当て、それぞれの物語が同時進行していく」的に物語を展開させていきます。

『ファイアパンチ』では序盤は主人公アグニを中心にストーリー展開しますが、途中で仲間に加わる女性「トガタ」によって転調し、単純な冒険物語を超えてより一層の膨らみを持っていきます。

彼女が語る前世紀の遺物である「映画」、そして「演じる」というテーマは作品を通してずっと貫かれ続けます。

© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第2巻(集英社)

前に書いたギレルモ・デルトロの映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の考察で、僕は作者とは意識的もしくは無意識的に必ず作中に己の分身を紛れ込ますと述べました。そして作者の分身が主人公、もしくは主人公に近しい存在であればあるほど、作品は熱を持ちドライブすると。

トガタは女性でありながら、今の言葉で言えばトランス・ジェンダーであり、己の身体に強烈な違和感を持った存在です。これこそ藤本さんだと思います。

別に彼がトランス・ジェンダーと言っているわけではありません。ただし「男社会」に強烈な違和感を抱いている「男」であるのは間違いないと思います。これは後で詳しく述べます。

話を戻しますが、トガタは『ファイアパンチ』における藤本さんの分身なのでしょう。だからこそ、彼女の口から藤本さんの「作家論」とでも言うべき「想い」が溢れ出てきます。以下のセリフは彼の作品がなぜ様々なキャラクターの「物語」が絡み合う複層構造になっているのか? そして何より彼にとっての作品とは何なのか? を知るのに極めて重要です。

映画ってスッゲーの……いろんな物語があって、いろんな主人公がいて、なんでもありなんだ

〜中略〜

面白ければ、なにしてもいいんだよ、映画は

© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第2巻(集英社)

「映画」に言葉を変換していますが、明らかにこれは「漫画」のメタファーであり、それが「何でもありなんだ=何でもありでなければならない」という一言に、彼が自身の分身=トガタに語らせた、創作にかける想いが溢れています。

加えて「面白ければ、なにしてもいいんだよ、映画は」の一言は、その2でも述べた「道徳」や「良心」すら吹き飛ばして、人間の本質を剥き出しにするのが作家の仕事である、という熱い想いもまた溢れ出ていると言えるでしょう。

『ファイアパンチ』から『チェンソーマン』へ。最も藤本さんが飛躍した部分こそ、この「何でもあり」を加速させた事に尽きるでしょう。だからこそ『公安編』で最もショッキングな主人公がヒロインを食べるという出色のシーンが描けたのです。

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第11巻(集英社)

ちなみにこれを世に出すことに決めた編集部の判断も凄いと思います。まがりなりにも国民的少年誌です。とんでもないクレームや規制がかかる事だって想定されたはずです。しかし彼らは敢行した。どれだけ世間が叩こうとも、絶対に作家を守り抜くという「覚悟」がなければ出来ないことです。

上記のカットは一見、孤独な男のぼっち飯という日常的シーンでありながら、人食という極めて残酷な内容を含んでおり、それをあえて日常的カットにした事で、内包された異常性が極限まで強調されている。まさに藤本さんにとって練りに練った渾身の1枚でしょう。

これを世に出した気骨ある編集者がいたという事実も踏まえて、凄いカットです。乱暴に言うとこの1枚があるだけで、この作品が世に存在する意味がある、僕はそう思います。

『レゼ編の素晴らしさ』

トガタ以外にもサンやユダ、スーリャなど様々なキャラクターが互いの物語を持ち寄り、複雑に絡み合って構成されていく『ファイアパンチ』ですが、『チェンソーマン』ではもっとスッキリとした構造に整えられています。

何本ものキャラクターという「糸」を組み合わせて「織物」を織るような作品が『ファイアパンチ』なら、各編において主となるキャラクターとテーマを切り変えていくのが『チェンソーマン』です。これは先に書いたように中編を組み合わせ、一本の長編作品を作るという手法とも言えます。

今作は現状では『公安編』と『学園編』の2章構成ですが、さらに第1章の『公安編』を僕なりに細かく分けると以下になります。なぜ女性の名前で分けたのかは後で詳しく述べます。

  1. パワー編(コウモリの悪魔)
  2. 姫野編(永遠の悪魔&サムライソード)
  3. レゼ編(ボムの悪魔)
  4. サンタクロース編(人形の悪魔)
  5. マキマ編 (支配の悪魔)

中でも異色なのはアニメ化もされた『レゼ編』でしょう。血なまぐさい戦闘が主体だったストーリー展開から恋愛作品へ物語は一気に変化します。切り替えのタイミングも見事で、ひたすら続く戦闘に読者の感覚が麻痺しそうになる中、一瞬で内容を切り替えた。音楽で言うなら転調が行われ、曲の雰囲気が変わり、テンポがゆっくりと落ち着いていく……。

象徴的なのは冒頭のシーンですね。戦いでヒートアップしたデンジの心を慰撫するように雨が降り注ぎ、彼はレゼと出逢います。

© 藤本タツキ/集英社 © MAPPA/チェンソーマンプロジェクト

『レゼ編』では冒頭の夕立シーン以外にも、プールでじゃれ合う二人や、台風の中、夜の校舎で語らうシーン、さらに別れとなる波打ち際のシーンなど、いずれも「水」のイメージが通底しています。

実は「波打ち際」というのは藤本作品では極めて大きな意味を持っており、前作『ファイアパンチ』でも描かれましたが、いずれも主人公が成長し、次なるステージへの移行を象徴するシーンとなっています

さらに主人公に寄り添う女性(レゼ&トガタ)が己の命を彼らの成長の代償として差し出すのです。それを糧に主人公(デンジ&アグニ)は次なるステージへと駆け上がっていく。女性が男を成長させる、これも藤本作品の共通点のひとつです。

© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻(集英社)
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第6巻(集英社)

この波打ち際のシーンを経て、己の生き方全てをマキマに委ねてきたデンジに初めて自我の予兆が芽生えます。

信じられない……どうして私を蘇らせたの……?

……オレは素晴らしき日々を送っている。何回もボコボコにされて、酷い目に合って死んでも、次の日にウマいモン食えりゃそれで帳消しにできる。でも……ここでレゼを捕まえて公安に引き渡したら、なんか……魚の骨がノドに突っかかる気がする。素晴らしき日々を送っていても、時々ノドん奥がチクってなりゃあ最悪だ。

今、私に殺されても同じこと言える?

殺されるなら、美人にってのが俺の座右の銘。

〜中略〜

じゃあ、私は逃げるから。

一緒に逃げねえ? オレも戦えるから逃げれる確率あがるぜ

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第6巻(集英社)

これまでの戦闘の繰り返しと違って『レゼ編』を芳醇なものにしているのは、それまで各キャラクターの背景が深く掘り下げられることはありませんでしたが、彼女はソ連が国家のために作った戦士であり、別名「モルモット」と呼ばれる存在であった、そんな「背景=バックストーリー」が詳細に明かされることです。

そんな彼女の切なさを象徴する、「デンジ君、ホントはね、私も学校行った事なかったの」と言う最後のセリフに加え、作中で彼女が歌う「ジェーンは教会で眠った」も出色です。

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第5巻(集英社)

さらに「モルモット=ネズミ」として生きるしかない彼女の口から語られる「田舎のネズミと都会のネズミの寓話」 における「キミは食えて楽しけりゃいいのか?」は『公安編』のみならず次の『学園編』も含めて今作を通底するテーマのひとつとなっています。

デンジ君はさ、田舎のネズミと都会のネズミ、どっちがいい? 田舎のネズミは安全に暮らせるけど、都会のようにおいしい食事はできない。都会のネズミはおいしい食事はできるけど、人や猫に殺される危険性が高い。

〜中略〜

俺ぁ、都会のネズミがいーな。

え〜!? 田舎のネズミの方がいいよ〜。平和が一番ですよ。

都会の方がウマいモンあるし、楽しそうじゃん。

キミは食えて楽しけりゃいいのか?

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第5巻(集英社)

田舎から都会へ、マキマによって引っ張り出されたネズミ=デンジは「おいしい食事=楽しい暮らし」を求めて、都会生活を謳歌します。デンジとレゼは共に戦いから逃げる事を許されず、もし上の命令に背けば消去される存在です。

それを自覚しているレゼと無自覚のデンジ。都会にいたいデンジと田舎を夢見るレゼ。先に述べたように彼女はデンジが成長するための大切な生け贄であり、だからこそ『レゼ編』はこれまでと異なるラブストーリーという構造で丹念に描かれた。

ちなみに個人的に『レゼ編』が最高にエモく切ないのは、レゼはデンジに恋心を抱いたのに、デンジは結局のところ、レゼを本当には愛してはいなかった事です。

実際その後の展開を読んでも、デンジの心にレゼが再び現れる事はなかった。彼の心にはいつだってマキマしかいないのです。そんな2人のすれ違いを最高に描いたのが以下のカットです。

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第6巻(集英社)

と言うか、デンジは現在のところ本質的に誰かを「愛する」事ができない。マキマをずっと想い続けるのは、単に自分に最初に優しくしてくれた母的存在として、動物の赤ちゃんが生後間もない時期に、特定の対象(親)を記憶し、それに追従する行動を形成する学習プロセス「インプリンティング=刷り込み」してしまうのと全く同じです。

つまりこの段階でデンジはまだ赤ちゃんです。だからこそ彼は己の殻を打ち破るために、マキマ=母を殺さなくてはならないのです

その4へ続く