『同じ構造の物語』
デビュー前の短編を集めた『17-21』および『22-26』の2冊の次に僕が手に取ったのが、藤本さんの実質的なデビュー長編作『ファイアパンチ』でしたが、それを読み進めるうちにアレアレ?と思いました。なぜならストーリー展開や物語の構造が『チェンソーマン』と全くと言ってよいほど同じだったからです。
もちろん世界設定は大きく異なります。『チェンソーマン』が現代世界をベースに悪魔との戦いを描く物語なのに対し、『ファイアパンチ』の舞台は未来の氷河期の地球。人類が絶滅していく中、孤独な男が復讐を胸に世界を旅する姿を描いています。
中でも凄いのが主人公アグニの設定です。彼は肉体再生の力を持った不死能力者なのですが、食糧難の時代の中、自らの手足を切り落とし、村の人間に食料として供給しています。
それだけでなく、炎の能力者によって死ぬまで消えない業火に焼かれるのですが、再生能力があるために死ねず、身体中を炎に焼かれ続けながら、復讐の旅を続けるというとんでもないものです。
普通の作者なら単純に炎の能力者として主人公を設定したはずです。しかし壮絶なる苦痛(動けるまでに8年かかる)に耐えながら、炎を全身にまとい世界を彷徨い続ける化け物のような主人公。よくもまぁこんな事を思いつけるものだと感嘆しました。

それでは具体的に、この2作の構造的に同じ部分を並べてみましょう。
- 主人公(デンジ&アグニ)が神(あるいは超越的存在=ポチタ&ルナ)から、彼らの代わりにこの世界を旅しろと命じられ、悩み傷つきながらも世界をさまよう。
- 主人公はいつの間にか群衆の要望で「救世主=英雄」を演じさせられることになる。
- その世界で「信仰の対象となる存在=神」は、いずれもサブカルのチープな映画作品を元にしている。
- 長編作品ではあるものの、曲が変調するように、異なった構造の作品が次々に展開されていく。言い換えれば、中編を幾つか組み合わせて、長編を作り上げている。
- 主人公を成長へと導くメンター(指導者)が女性であり、彼(デンジ&アグニ)は彼女らに翻弄され続ける。
- その1で述べたように、いずれの作品も構造的に主人公(デンジ&アグニ)は狂言回し(物語の進行を担う存在)であり、彼らに関わる幾多の女性達こそ本当の主人公である。
- 狂言回しである以上、主人公は空虚であった方が他のキャラを引き立てやすい。そんな空虚で他人(女性たち)に自分の生きる意味を決定されていた主人公(デンジ&アグニ)が、最後に自分で生きる意味を見いだすまでの物語でもある。
『チェンソーマン』が完結していない以上、類似点として現状挙げられるのはこれぐらいです。ちなみに僕は藤本さんが安易な自己模倣をやっているのだとは全く思いません。と言うか明らかにこれは確信犯でしょう。
『英雄が世界を旅する物語』
まず1と2を合わせて紐解いていきます。前作『ファイアパンチ』は主人公アグニが、不死能力を持つが故に死ぬまで消えることのない業火に身を焼かれながら、未来の氷河期の地球を旅する物語です。
その発端は妹であり、かつ彼が一生をかけて探し求める「偶像的=神的存在」であるルナから言われる以下の言葉です。

暖かい時(じだい)の話をする兄さんはいつも楽しそう。私……その顔がすごく好きです。ねえ……兄さん。いつか外が暖かくなったら、一緒に世界を見てまわりましょう?
にっ兄さ……にいさっ……ん……生きて……。
© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第1巻(集英社)
消えることのない業火に身を焼かれ、とんでもない苦痛にさいなまれるアグニは死を望みつつも、ルナが発した「一緒に世界を見てまわりましょう」さらに「兄さんは生きて……」この2つの言葉で縛られてしまい。その結果死ぬことが出来ず、雪原の荒野を流浪するのです。
一方の『チェンソーマン』では、ポチタとデンジの間で以下のやり取り=契約が結ばれます。

私は……デンジの話を聞くのが好きだった……これは契約だ。私の心臓をやる。かわりに……デンジの夢を私に見せてくれ。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第1巻(集英社)
上記に並べた2枚の絵を見比べれば分かるのですが、1枚目の『ファイアパンチ』で、ルナがアグニに語りかけるシーンも、2枚目の『チェンソーマン』でデンジが目覚めたシーンも、セリフが太字で強調されると共に、暗闇の中に光が差し込む構図となっており、どちらも主人公が啓示(神や超越的存在からの言葉)を受けるシーンとして極めて重要なカットとなっています。
ちなみにデンジの夢とは以下のようなものです。
悪魔には……死んだ人の身体を乗っ取れるヤツもいるらしい。ポチタにそれが出来るんだったら……俺の身体をポチタにあげてーんだ。
そんでこの町を出て……そんで……うん……普通の暮らしをして、普通の死に方をしてほしい。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第1巻(集英社)
前作『ファイアパンチ』はいつの間にか「世界の救世主=英雄」として崇められていくアグニを通して、宗教が大きな意味を持っています。世界中の様々な宗教には迫害を受けながら、世界をさすらう「神の使い=英雄」の話が出てきます。キリスト教におけるイエス・キリストはもちろんのこと、イスラム教におけるムハンマド、仏教におけるブッダもそうです。
実はこれは日本においても同様で、古事記や日本書紀に端を発する我が国の歴史は、天上界の高天原(たかまがはら)を統治していた天照大神(アマテラス・オオミカミ)が、今の天皇の始祖である神武天皇に「この国のことを識っておいで」と命じられ、天から使わされるところから始まります。彼は幾多の試練を経て、やがて日本の初代天皇に即位します。
言い換えれば、宗教上の英雄たちは神の代わりにこの世界を知ろうと旅する神の代理存在であり、これは後で詳しく述べますが、神から我々人間に与えられた生け贄なのです。

破天荒でパンキッシュな『チェンソーマン』の根底に流れるのは、実は骨太で重厚な「神の使い=英雄」の誕生と苦悩を描く物語です。
藤本さんが凄いのは同じ構造を踏襲しつつも、前作『ファイアパンチ』ではストレートにそれを表現したのに対し、今作『チェンソーマン』では少年漫画の王道=悪魔退治物というポップで分かりやすいフォーマットに変換し直した事です。
『ポチタ = 孤独な神』
僕はその1で、藤本さんは作品内に独自ルールを設定し、それを元に自在に作品を展開させていく作家であり、今作品内における幾つかのルールの中で、最も重要なものが悪魔がいる世界なのに、その対立項である「神」という存在が言葉すら全く出てこないことであると書きました。
これこそ藤本さんが張り巡らせた伏線でしょう。現実世界の理(ことわり)に何かを「付け加えること」だけでなく、何かを「引いておくこと」もまたルールの創造なのです。
今作のルールの一つに悪魔と人間の間で取り交わされる「契約」があります。悪魔はいずれも契約を結ぶ人間に代償に求め、最終的には姫野と幽霊の悪魔の時のように命すら求めます。これはアキの口からも具体的に説明されています。
デビルハンターは悪魔と契約して悪魔と戦う。俺は『狐の悪魔』と契約している。力を借りる代わりに体の一部をキツネに食わせる契約だ。今回は皮膚を食わせた。
ほお〜ん……痛そう。
悪魔は常に人の死を望む。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第2巻(集英社)
しかしポチタはデンジに苦痛を伴う「代償=命」を求めません。ただ「君が望むようにこの町を出て、世界を旅しておいで」と、ルナがアグニに求めた事と同じ内容を語るのです。ポチタは一見、悪魔かと思われますが、これを見ても本質的に異なることが分かります。
また「公安編」の最後で「ポチタ=チェンソーマン」が悪魔と対立する存在である事がマキマの口からも語られます。
覚えていますか? 彼らの中にいる武器の悪魔達と4人の騎士が貴方と戦い、その最中、貴方は私達の前から消えてしまった。探しても見つからなかったのは当然でした。貴方は瀕死の変わり果てた姿で生きていたのだから。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第10巻(集英社)
つまりポチタこそ、この世界における「悪魔の対立項=神」であり、デンジは神(ポチタ)の使者なのです。以下のゴミ箱内部のシーンは作中に2回現れ、いずれもそこでデンジは復活を果たします。一見汚いゴミ箱は実は神の使いを生み出す「子宮」なのです。


なぜポチタを神と断言できるのか? それは彼が食べた悪魔の名前をこの世界から消去できるからです。藤本さんは『ファイアパンチ』でキリスト教から引用した名前や地名を幾つも用いています。つまりキリスト教をある程度インプットしているということ。そしてキリスト教の根幹である聖書には以下の言葉があります。
初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。全てのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。この人は証(あかし)のために来た。光について証(あかし)をし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光について証(あかし)をするために来たのである。
「新約聖書」ヨハネによる福音書 冒頭部分
「言葉=名前」を創造し、同時に消去できる存在、それは「神」しかあり得ません。
『なぜ神はチェンソーの姿をしているのか?』
次に『チェンソーマン』と『ファイアパンチ』が同一構造で作られていると述べた3番目の『その世界で「信仰の対象となる存在=神」は、いずれもサブカルのチープな映画作品を元にしている』の説明になります。
前作『ファイアパンチ』で、なぜアグニは神の使いとされたのか? それは旧世界の異物である「映画」、しかもB級カルト作品である『ファイア・ベヘムドルグ(架空の作品です)』を見た人たちが、映画というフィクションの創作物に触れたことがなかったので、そこに出てくる炎に包まれた主人公がすっかり本物であると思い込んでしまったからです。そしてそれは「神」の姿だとして洗脳に利用されました。

ベヘムドルグでは代々……民を統率しやすくする為に、神が活躍する映像を見せて洗脳していく。ベヘムドルグの神が地獄の悪魔を炎で燃やす光景に私の魂に炎がついた。私も洗脳された一人だ。
〜中略〜
私が今まで見ていたのは映画という娯楽の為に作られた創作物だった。昼夜の2回礼拝していた神はただ人間の役者だった。私は男の演技を信じ、人を燃やしていたのだ。
© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻(集英社)
しかもその後、神として信じ続けていた役者はアル中の強姦魔であったとまで知らされます。
何とも情けない神様ですが、これは今作でも同様です。ポチタは小さなチェンソーです。なぜこんな存在が神たり得るのか? これが今後出てくるかどうかは分かりませんが、間違いなく出典はホラー映画の金字塔『悪魔のいけにえ(テキサス・チェンソー)』でしょう。

Bryanston Distributing Company
チェンソーを振り回し人肉を喰らう。実話を基に人皮のマスクを被った殺人鬼レザーフェイスによる惨殺劇を描いた同作は、低予算の典型的B級映画として上映されましたが、今やホラー映画の原典にして金字塔とまで語り継がれるまでになりました。
アル中の強姦魔にチェンソーを振り回す殺人鬼。どちらもなぜこんなにもチープでダークな神様なのでしょう? これまでさんざん宗教的の話を重ねてきましたが、僕は藤本さんが特に宗教に深い興味を持つ人間だとは思いません。実際デビュー前の短編作『17-21』『22-26』を読めば分かりますが、宗教的テーマは皆無です。
『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』いずれも宗教的要素は散りばめられているものの、前に論じた『チ。—地球の運動について—』の魚豊さんのように、綿密に構築された宗教史をベースにしている訳ではありません。言葉は悪いのですが安っぽい引用でしかない。
だからこそ、それに合わせて神の姿も安っぽくしたのでしょうし、そんな神の使いであるデンジを生み出す「子宮」もまた、先に挙げたゴミ箱の中なのでしょう。
むしろここで重要なポイントは、それぞれの「神」がその作品のテーマに深く根ざしていることです。『ファイアパンチ』のアル中強姦魔は、宗教を統治に利用する人間の愚かさの象徴であり、実際アグニは己の実像と、民衆が求める英雄像の間で揺れ動きます。
一方『チェンソーマン』における『悪魔のいけにえ(テキサス・チェンソー)』では、惨殺に加え、人を喰らうという1974年当時ではあり得ないショッキングなシーンが出てくるのですが、この「喰らう」という行為は悪魔を食べ、その存在を消してしまうチェンソーマンの能力に加え、『公安編』の最後、マキマを調理して食べるという、少年ジャンプという大衆漫画の歴史において、「初」であろう衝撃的シーンへの伏線だと言えるでしょう。

俺……あんな目にあっといて……まだ心底マキマさんが好きなんだ。でも……でもアンタが今までしたことは死んでった連中が許さねえ。だから……さ、俺も一緒に背負うよ。マキマさんの罪。
〜中略〜
そこで天才! 俺は閃いた。マキマさんと俺……一つになりゃあいいんだ……。
いただきます!まずは味噌汁、んお……イケる。次に肉と玉ねぎの生姜焼き……ふんふん……なかなかウメえな。
マキマさんって、こんな味かぁ……。
© 藤本タツキ『チェンソーマン』第11巻(集英社)
実は『悪魔のいけにえ』は2026年3月に4Kリマスター版のDVD が発売されるのですが、なんと藤本さんは以下のレビューを提供しています。
「悪魔のいけにえ」はゴアと切なさ、愛おしさが詰まったとてつもない映画です。おそらく作品を見た事のない人は序盤に驚き、自然の中に突然現れる四角に収められた赤色に驚き、レザーフェイスというキャラクターが持つリアリティに「こいつこんな可愛いヤツだったのか!」と驚くと思います!僕はもちろん悪魔のいけにえシリーズで一番好きな作品はこの第一作目ですが、以降の作品でも必ず、他の映画ではまず得られる事のないカタルシスが見られるので一作目が気に入ったのなら是非続編も見て欲しいです。
© 藤本タツキ『4Kリマスター公開50周年記念版 悪魔のいけにえ』公式サイト/松竹

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同作は1974年当時、B級ホラーを出発点としながらも「道徳」や「信仰」、「良心」なんてものを打ち砕き、その後の映像表現に決定的影響をもたらしました。俺だってこれまでの常識を吹き飛ばし、漫画史に爪痕を残す作品を描いてやる! これこそが藤本さんが『チェンソーマン』に込めたかった最大の魂(たましい)なのでしょう。
チェンソーのフォルムを主人公に採用することを決めた時、主人公がヒロインを喰らうという衝撃の最終シーンまで、既に彼の頭の中には描かれていたと僕は確信しています。
その3へ続く

