デンジが旅する「女性」という広大な世界 「チェンソーマン(公安編)」 —その1

『漫画とアニメで目指している世界が違う』

※今作は漫画版『チェンソーマン』の考察であり、アニメ&映画版より先のネタバレが含まれます。

2025年、映画『レゼ編』が空前の大ヒットを記録した『チェンソーマン』ですが、僕自身はAmazon Prime Videoで何の気なしにアニメ版を見たのが最初でした。なんとなく名前だけは聞いていたので、軽い気持ちで鑑賞し始めた結果、これは面白いっ!と一気見しました。

© 藤本タツキ/集英社MAPPA

ただしTVアニメ版(シーズン1)はちょうど良いところで終わってしまうので、その後が気になり、漫画本をAmazonで大人買いし、これまた一気に完読しました。その結果、僕が感じた第一の感想は「なんだこりゃ?」でした。

漫画を原作として描かれたTVアニメですが、やはり監督や制作スタッフの個性が出るので、原作との間にどうしても差異が生じます。アニメ版に対する僕の感想としては、少年漫画によくある悪魔退治物だけれども、テンポが抜群に良く、独特な世界観やスタイリッシュさが素晴らしいと思っていました。

けれど原作の漫画版を読むと印象が大きく変わりました。まずもって、この作者さんはおそらく一般的な少年漫画に全くと言ってよいほど興味がない人だろう、そう直感しました。言い換えるなら藤本タツキという作家の個性は一般的な少年漫画家のそれとは全く異なるものだ、と言うことです。

『少年漫画って、何だ?』

そもそも少年漫画って何でしょう? これを僕なりに凄く乱暴にまとめると「必ず戦闘がテーマになる」と言うことです。『チェンソーマン』のように人間対悪魔という王道的ストーリーはもちろんのこと、スポーツだって立派な戦いですし、探偵による推理物だって知力と知力の戦いであるわけです。

とにかく「①何かと戦い」→「②勝利」し→「③何かを得る」、その一連の流れを描くのが僕が考える少年漫画の定義です。時代も進化しましたが、このフォーマットの中で手を変え、品を変え、漫画家の皆さん達は僕らをずっと楽しませ続けてくれています。

中でも本作が連載される週刊少年ジャンプ(現在では少年ジャンプ+)はその本丸であり、『SPY × FAMIRY』や『ダンダダン』など戦いを中心に据えつつも、「スパイ×疑似家族から本当の家族へ」「楽しい学園生活×未知なる存在との融和」など多彩な組み合わせが生み出されています。

© 遠藤達哉/集英社SPY×FAMIRY制作委員会

しかしそもそもなぜ『戦う』のか? それはやはり僕ら男性に太古の昔から『戦って奪い、その結果として生き残りを目指すこと』が遺伝子にすり込まれているからでしょう。要は男って「戦い」が大好きなんです。

最近は少年漫画の世界に女性作家さんたちが進出することも多くなり、多様な作品が生まれています。その中で王道的な「戦闘物」を描く方々もおられますが、実は上記で述べた①〜③のうち、②と③が男性作家と大きく異なることが多いです。

一例として大ヒットした荒川弘さんの『鋼の錬金術師』は、戦って何かを奪い取る話ではなく、戦って奪われた大事なものを「取り返す」話ですし、三宅乱丈さんによる、異なる民族同士の闘争を描いた、重厚で骨太な歴史絵巻『イムリ』もまた同様です。

『漫画版チェンソーマンで感じた違和感』

『チェンソーマン』は人間対悪魔という、バリバリ王道的な少年漫画のフォーマットを踏襲はしているものの、作者の本質はそこにはない。それを強く感じたのが戦闘シーンの描き方です。身も蓋もない、失礼な物言いになってしまうのですが、藤本タツキさんって戦闘シーンが下手なんですよね。

分かりやすいのがコミック第2巻に登場する「永遠の悪魔」との戦いです。せっかく無限回廊という知的で面白いシチュエーションを構築したのに、その解決方法はデンジがひたすら悪魔を痛めつけて、我慢の限界を超えさせて降伏させるというオチでした。

『チェンソーマン』はもちろん、彼の長編デビュー作『ファイアパンチ』でも顕著なんですが、とにかく戦闘シーンは力と力の押し合いばかりで、どちらかが極限まで押し切って勝つという結果ばかりです。

© 藤本タツキ『チェンソーマン』第3巻(集英社)

一般的な少年漫画家ならそんな事はしません。なぜなら「作者にとって最も美味しいのが戦闘シーン」であり、メインディッシュとして一番心血を注いで、丁寧に描くものだからです。

例えば「戦闘シーンしか描けない漫画家(馬鹿にしているわけではありませんよ)」である荒木飛呂彦さん(ジョジョシリーズの作者)なら、無限回廊の中で緻密なルールを設定し、知略の限りを尽くながら心理戦の結果、そのルールを見破り、勝利&脱出するというのをじっくり時間をかけて展開するでしょう。

しかし『チェンソーマン』では先に挙げたように、まるでちゃぶ台返しのようにあっけないデンジの力押しで戦闘は終わります。

乱暴に言うと藤本さんにとっての戦闘シーンって、本当に描きたいお話とお話の間を「つなぐ」ものでしかない。少年漫画誌に連載する立場である以上、仕方なく描いている、そんな気がするほどです。

『過去作品から垣間見える、藤本タツキさんの描きたい世界とは?』

強く感じた違和感を検証するため、僕は彼の過去作品を読むことにしました。処女作を含めた初期作品にはその作家の「核」が見え隠れすることが多いからです。まずはデビュー前の短編を集めた『17-21』および『22-26』の2冊から始めました。

するとやはりいわゆる王道的な戦闘ものがひとつとしてない。強いて言えば『チェンソーマン』のベースとなる設定に加え、マキマの生まれ変わりであるナユタと同じ名前が使われる『予言のナユタ』ですが、戦闘はあくまで添え物でしかない。

© 藤本タツキ短編集『17-21』『22-26』(集英社)

その他、現在までずっと続く、彼の作品の特徴として以下が挙げられます。

  1. 現実世界がベースでありながら、その作品毎に独自のルールを設定し、それを元に自在に作品を領域展開させていく。
  2. 作品毎に毎回設けられるユニークなルール設定と、それを最大限に活かそうとする作品展開を見ると、これまでの「常識」を変えたいという強い願望があるのではないか?
  3. 兄と妹という設定が多用される。
  4. 男性より女性を描くのが上手い。と言うか、本質的にこの人は男に興味がないのではないか?

これを『チェンソーマン』に当てはめると、1つめは悪魔の存在定義や、人と悪魔の間で行う「契約」という概念が挙げられます。ちなみに後で詳しく述べますが、このルール設定の中で重要なものが「悪魔」がいる世界なのに、その対立項である「神」という存在が言葉すら全く出てこないということです。

2つめのこれまでの「常識」を打破したいというのは、2冊の短編集を読んで一番強く感じたことです。その象徴とも言える『庭には二羽ニワトリがいた。』や『佐々木君が銃弾止めた』『目が覚めたら女の子になっていた病』などいずれもタイトルの秀逸さに加え、これまで読者が無意識に設定していた「領域」を飛び越えていこうとする試みを強く感じます。

分かりやすいのが作品中の以下の言葉です。彼の作家としての魂(たましい)を感じます。

先生ね、実は神様なんだ!

バカにしてます?

佐々木君と言っている事は同じだよ。人は常識の中で生きているから、それがその人の本当でも、ほかの人は常識と比べちゃうんだよ。私も常識的に考えて、月に佐々木君のお父さんがいるとは思わないけど、確率は0パーセントではない。この世界に0パーセントなんてなくてね、みんなは物凄く小さな確率をめんどくさいから0パーセントにしているの。

佐々木君が宇宙飛行士になるの応援するよ! 月で父親に会って、私の常識を変えてください!

© 藤本タツキ短編集『17-21』(集英社)

3つめの兄と妹と言うのは、上記2冊の短編集でも多用される他、彼のデビュー長編作『ファイアパンチ』では、作品世界の根幹に据えられています。

『チェンソーマン』では始めは押さえ込まれていたのですが、パワーの弱体化→妹化に加え、結局「公安編」の次の「学園編」では、デンジとナユタの関係性で再び現れてくるのです。

『藤本作品=女性作品?』

4つめの男性より女性を描くのが上手い事に加え、それに付随する本質的に男に興味がないのではないか? というのも、ずっと引き継がれる藤本さんの特質で、彼の作品が少年漫画誌連載である以上、主人公のほとんどが男性なのですが、キャラクターの魅力がイマイチ薄く、加えて、本質的な主人公は男性(今作の場合はデンジ)を狂言回しとして、彼の周囲で活躍する幾多の女性たちなんですよね。

だから『ルックバック』や、その原型となる『妹の姉』など女性が主人公だと俄然、作品世界がドライブする。結局、『チェンソーマン』という作品を駆動させているのもマキマやパワー、姫野やコベニなどの女性たちです。

© 藤本タツキ/集英社 © 「ルックバック」制作委員会

藤本さん自身もそれは理解していたのでしょう。今作で初めて彼は「早川アキ」という魅力的な男性キャラを創造します。破天荒で金髪のツンツン頭、パンキッシュなデンジは分かりやすく尖らせて記号化された部分が大きく、本質的に魅力あるキャラとしてはアキの方が上です。

しかしそれでもマキマや姫野には叶わないなぁ…..というのが正直な僕個人の感想です。言い方が悪かったですが、藤本さんの場合、男性キャラを描くのが下手というより、女性キャラを描くのが上手すぎるのでしょう。しかしなぜ上手いかと言えば、やはり興味があるからであり、逆に言えば男になんか興味がないのです。

『グダグダする主人公』

ちなみに先の2冊の短編集を読んで、個人的に一番面白かったのが個々の作品より、彼が各作品に添えている後書きでした。

例えば『17-21』に納められた『恋は盲目』です。

この作品はジャンプSQ編集部から「16Pで出来る事を31Pでやっている」「もっとページ数を短くするべきだ」と言われました。思えば、僕の漫画は今に至るまで全て16Pで書けるものを31Pでやっている気がします

『藤本タツキ短編集17-21』集英社

これもまさに藤本さんという作家を定義づける大きな特徴の一つだと思います。彼の処女長編作品、『ファイアパンチ』、さらに『チェンソーマン(公安編の次の学園編から)』いずれも「主人公がグズグズ、ダラダラ、ウダウダ思い悩み」その結果、16Pが31Pになるように迷走していくのです。

© 藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻(集英社)

前作『ファイアパンチ』は傑作ですが、中盤以降ずっとウダウダし続ける主人公アグニの姿が展開され、これ大丈夫なの? ちゃんと完結するの? 個人的にはとても心配しました。もちろんそれは杞憂で、そのウダウダも含めて、最後はきっちり伏線回収がなされ、文句なしのエンディングを迎えました。

彼が描きたいものの一つが、人が思い悩んだ末、その結果として次の「領域」へ踏み出していく、その「仮定」なのでしょう。しかし、それは時短視聴などが隆盛となった現在では「ウザイ」ものとして排除されています。

日本の漫画界を動かす巨塔、「週刊少年ジャンプ」連載開始に当たって、おそらく藤本さんはこれまでの自分を抑制し、王道の少年誌の中でトップを取りに行ったのだと思います。その豊かな果実は今作の「公安編」として結実しましたが、やはりと言ってか、次の「学園編」からはウダウダ悩むデンジの姿が繰り広げられ始めました。

その2へ続く