『読み解く上で、補助線となる作品について』
村上春樹さんの「納屋を焼く」は読後に残る大きな「謎」もあって、ネット上で検索しても、これを論じる方は多いみたいですね。僕も大好きな作品ですが、今年に入って韓国の巨匠、イ・チャンドン監督による、これを原作とした映画「バーニング」が公開された事もあって、久しぶりに再読しました。
村上さん自身は小説内の「謎」に対する答えなんて求めるだけ無駄だ、小説のポイントは解答にあるのではない、とおっしゃられている方なので、いわゆる「読み解き」を求めても意味ないよと考える方もいると思いますが、それでも昔は分からなかった幾つかの点がスッと理解できたので、そのことも含めて書いていきます。
まずこの作品の着想自体はフォークナーの「納屋は燃える=Barn Burning」に端を発しており、主人公の「僕」がフォークナーの短編集を読んでいたとの記述が小説内にもあるところからも間違いないと思われます。
しかし村上さんは単に何かを「燃やす」ことに取り憑かれた男、アブナー・スノープスと、焼かれ続ける「納屋」という設定に魅了されただけで、それ以外この作品から「納屋を焼く」についての直接的な言及は必要ないと考えます。
えーっ、それって無責任じゃない? ただ設定を借りただけ? そう思われるかもしれませんが、アイデアとは本来そういうもので、既存の何かと新しい別の要素との組み合わせで生まれます。村上さんは「納屋は燃える」に、己の内面に存在する別の何かを組み合わせることで「ジャンプ」し、「納屋を焼く」を書いたのでしょう。
『創造力とは、記憶である』
上記は20世紀の最も重要な小説家とされた一人、ジェイムズ・ジョイスの言葉ですが、村上さん自身も過去の発言でこれを何度か引用しています。つまり「創造」とは己の中にストックされた様々な記憶(他者の作品も含む)から湧き上がるものだと言うことですね。
そこで村上さんが「律儀」なのは、何かを基に着想した場合、それを隠さず、まるで義務のようにきちんとそれらを記述して見せるところです。
またフォークナーだけでなく、これ以外にも自身の作品の中に様々な他者の作品(小説はもちろん映画や音楽まで)を取り込んでミックスし、新たな物語を紡ぎ出していくのも彼のスタイルのひとつです。
しかし「律儀」だと書いたように基本的には全て、発想元の作品が分かるようにしています。また村上さん自身、大きな影響を受けた作品については後年、翻訳作品まで出している。有名なところでは「グレート・ギャツビー」や「ロング・グッドバイ」などが挙げられます。
では、そろそろ本題に移りましょう。僕はこの「納屋を焼く」においてフォークナーの「納屋は燃える」以上に、彼のイメージの「発火点」となった作品が他にあると思っています。それは、村上さんご自身でも翻訳もされている、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」です。
『ティファニーで朝食を→納屋を焼く』
ちなみに「ティファニーで朝食を」は、主演オードリー・ヘップバーンで有名な映画版がありますが、原作の小説とは、かなり内容が違います。「納屋を焼く」の「発火点」と考えられるのはあくまで原作となったトルーマン・カポーティの小説版の方です。
何と言っても映画でのヘップバーンのイメージが強すぎるので、あれに引っ張られて小説を読むと受ける印象がかなり違います。例えば風貌からしてこんな感じです。主人公ホリー・ゴライトリーは自分で髪の毛を黄褐色から白子、ブロンドから黄色まで、まだらに染め、いつもサングラスをしています。ギターを弾きながら、しゃがれた割れがちな声で歌い、盗みだってお手のもの。レズの女性とも平気で同居し、むしろ身の回りの世話をしてくれるから、そっちの方が良いとまで言い切ります。
型破りに奔放で、性にも開放的。この作品は第二次世界大戦下のニューヨークという設定なので、当時の風俗から考えるとかなり先鋭的。パンキッシュと言ってよいかもしれません。また俳優エージェントが彼女の後を追いかけ回し、その気なら映画俳優になれるものを、そんなつもりもなく、色んな金持ち男の間を渡り歩いては彼らに養って貰っています。これは「納屋を焼く」のヒロインである「彼女」とそっくりです。
彼女はなんとかという有名な先生についてパントマイムの勉強をしながら、生活のために広告モデルの仕事をしていた。とはいっても彼女は面倒臭がって、エージェントからまわってくる仕事の話をしょっちゅう断っていたので、その収入は本当にささやかなものだった。収入の足りない部分は主に彼女の何人かのボーイ・フレンドたちの好意で補われているようだった。
村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
『ホリー、そして彼女』
それぞれの作品に共通する部分で最も象徴的なのが、両方の「彼女」がアフリカへ行ってしまうというくだりです。この意味に関しては後で述べますが、それ以外で微笑ましいのがリンゴを食べるシーンです。「ティファニー」ではホリーが語り手であるフレッドの部屋で、「納屋を焼く」でも「僕」が彼女を待つ間、延々とリンゴを食べ続ける描写があります。村上さん、律儀だなぁとここでも思いました。
さらに「納屋を焼く」で最も印象に残るシーンのひとつに「蜜柑むき」がありますよね。それを褒めた主人公の僕に対して、彼女が返す言葉があります。ここでもそれぞれの作品に呼応する箇所がありました。
「君にはどうも才能があるようだな」と僕は言った。
「あら、こんなの簡単よ。才能でもなんでもないのよ。要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」
村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
そいつは間違っている。彼女はまやかしなんだよ。でもその一方でまた、あんたは正しい。だって彼女は本物のまやかしだからね。彼女は自分の信じている紛い物を、心底信じているんだよ。あの子をそこから引きはがすことは、誰にもできやしない。
トルーマン・カポーティ 著/村上春樹 訳(1958)「ティファニーで朝食を」新潮社
どちらの作品の「彼女」も資本主義社会の中、例外的に「欲望」を持たず、飄々と生きています。ただ明確な違いはあって、それは作品全体に流れる「空気」です。「ティファニー」は一応、戦時中のニューヨークという設定ではありますが、書かれたのは1958年。まさにアメリカの絶頂期であり、皆が自動車からテレビまで様々に消費文化を謳歌しました。
アメリカ人が思い描く「よきアメリカ」とは、多くはこの時のことを指しています。そんな時代の空気を受け、「ティファニー」で描かれるニューヨークは猥雑でありながらも、同時に輝かしい未来が瞬き、そんな世界をホリーは駆け抜けていきます。
しかし「納屋を焼く」は違います。こちらは1983年の日本です。好景気に沸いていますがその後バブルは膨らみ始め、やがて弾けます。その予兆と言うべきか、80年代はシラケの世代とも呼ばれ、皆が世相に関心が薄く、政治的にも無関心で、何においても熱くなろうとしませんでした。そもそも「真面目」が格好悪い時代だったのです。
「彼女」はそんな時代のひとつの象徴として、ホリーとは異なり、随分と熱量の低いキャラクターであり、その結果、彼女と「僕」の関係も随分とサバサバしたものです。
僕もいろいろと話をしたけれど、たいしたことは何ひとつ話さなかった。話すべきことはべつに何もなかった。本当にそうなのだ。話すべきことなんて何もないのだ。
村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
『帰ってきたホリー・ゴライトリー』
そんな異なる部分のあるふたりの女性ですが、どちらの物語においても同じなのは主人公「僕」にとっての彼女らの存在が意味するものであり、どちらの「僕」もそれに癒やされ、その滋養を分けてもらうことで生きています。では、「それ」とは何か? あえて言葉にするなら「イノセンス」です。
日本語では「純真、無邪気」に加え、「無知、純潔」を意味します。端的に言うと、誰もが生まれた当初は持っているけれど、生きていく過程(社会化していく過程)で失ってしまう輝きや躍動感。彼女らがそれを持ち続けていられるのは、己の欲望を否定せず、生きたいように生き続けながらも、決して「何者」かになることで社会化しようとしなかったからです。逆に言えば社会的に「何者」かになった時、イノセンスは消失するのです。
イノセンス、それは人が大人になるために代償として差し出さなければならない、子供時代の「夢」のようなものです。
人は「イノセンス」を求め続けます。「ティファニーで朝食を」のジョー・ベルやユニオシさんが消えたホリーのことをずっと想い焦がれていたように……。なぜならそれは消えてしまうが故に美しく記憶に残る、虹のようなものだからです。村上さんも翻訳した「ティファニー」のあとがきで書いているように、トルーマン・カポーティとは様々な人々が抱えるイノセンスの美しさと、その崩壊の悲しさを描き続けた作家でした。
どちらの「僕」もその社会をひっそりと生きていますが、やはりそれぞれに不安や悩みを抱えています。彼女たちはそんなゴタゴタを一時、忘れさせてくれる貴重な存在であり、それは1950年代のニューヨークでも80年代の東京でも変わりありません。
そして「ティファニーで朝食を」で、カポーティは「喪失されようとするイノセンス=ホリー・ゴライトリー」をアフリカへ逃がすことによって一時的に「冷凍保存」し、守ろうとしました。しかし、村上さんって残酷ですよね。ホリーはアフリカから帰ってきます。1980年代の日本に「彼女」へと姿を変えて……。
その2へ続く